自己紹介を書いてみる(0歳〜18歳)
先日以下のようなポストをしたのですが、もっと深ぼって、自分がどういう人間・人生を歩んできたのか、というのを改めて書いてみたいと思います。
人生初に近い、まともな転職活動を2022年11月〜2023年1月にしたのですが、その中の面接の1つで、「どうやって生きてきたのか」の自己紹介を30分ほど、0歳からして欲しい、というちょっとめずらしい面接がありました。
そこでお話させて頂いた内容が自分でも中々振り返る機会がなかったものなので、改めて文章としても書いてみようと思います。
生い立ちと幼少期
1988年に鹿児島県鹿児島市にて生まれました。自分はいわゆる中流階級の一般家庭で育っています。IT業界にいると高学歴の人が非常に多くて驚きますが、私は非常に一般的な家庭出身です。
幼稚園は地元の私立幼稚園(1947年設)と鹿児島市立西田小学校(1875年年設)で幼少期を過ごしました。特に小学校は歴史のある小学校で、校舎自体は当時の時点で新しくなっているものの、戦前からあるフェニックスの木が印象的でした。校訓にもフェニックスが入っているぐらいフェニックス推しの小学校です。
校訓
「強く」焼け跡から芽を出したフェニックスのように力漲る
「正しく」真理を求め,支え合って伸びる一隅の塔のように知性煌めく
「美(うるわ)しく」仲良く力を合わせる校章の桜のつぼみのように品格溢れる
そこでまぁ普通に小学生として育ちました。特に中学受験をする環境でもなかったですし、する人も殆どいない学校だったので、そのまま地域の中学校に進学しています。
西田小学校の卒業生としては有名なのは稲盛和夫(京セラ・第二電電創業者)さんですね。
あとは完全に飛び火感がありますが、コードレビュー自動化サービスSiderをやっていた身としては、同じくエンジニア向けのサービスであるdeploygateの藤﨑さんも同じ小学校だった事に驚きました。
小学生のころは特にITには触れていなくて、学校の授業でパソコンを触る機会があった、ぐらいでしょう。Windows 3.1のパソコンが40台ぐらいあったように思います。
それよりも自分自身に影響を与えた本としては推理小説系があるかなと思います。もちろんシャーロック・ホームズも全巻読んでいたのですが、小学生なのでそんなかたっ苦しいものよりは、青い鳥文庫の「パソコン通信探偵団」シリーズを愛読していました。
家にインターネット環境はなかったのですが、「パソコン通信」というものがあるのか、という理解と、パソコン通信のある環境に対する憧れみたいなものを当時持っていました。
中学生時代
部活は放送部(と卓球部)
中学生時代も特に変わったことはしていなくて、部活は卓球部、委員会として放送部に入っていました。なので全校朝会とかは出なくて済んで、放送室でのんびりとマイク音量の調整とかをしていました。
校長先生のお話を放送スペースで座って聞けるのは低血圧の私としては楽で助かりました。
文化祭や体育祭などでは配線をひたすら引き回していましたね。当時は「ケーブル」としか思っていなかったですが、最近になってようやくあのとき引き回していたケーブルはXLRケーブルという名称だったんだな、というのを知りました。(もちろんRCAケーブルもMDプレイヤーとかから引き回したりしていましたが)
パソコン&インターネット到来!
中学生の時に初めて、父親が「ジャパネットたかた」のテレビ通販で買ったNECのデスクトップパソコンが届いて、それをこっそりと使っていました。Windows 98 SEが私のパソコンデビューです。
未だにSteamで売っている Age of Empireをするのに主に使っていました。
インターネットの契約は家はしていなかったのですが、どうしても対戦をしたかったので、パソコンのダイヤルアップ用の通信ポートから家の電話回線につないで、ライブドアのダイアルQ2を使ったインターネット接続サービスを親に内緒でこっそり使って怒られたりしていました。
でもほんと、ホリエモンには感謝です。私のインターネットはライブドアなしには有り得ませんでした。今の渡しがあるのはライブドアのおかげです。
電話機を引っこ抜いてインターネットに繋いでいたので、昼間だと「なぜか電話がつながらない」みたいに言われて怒られてしまうので分岐アダプタとかも使っていたのですが、それだと今度はインターフォンだけ機能しない、みたいなことがあって、度々怒られていました。
そんなところであの「Yahoo! BB」が登場してくれたので、やっと正式にインターネットが、しかもADSLが、我が家に来てくれたのです!
ライブドアやソフトバンクなど、日本のIT企業によって私のIT人生は組成されたといっても過言ではないと思います。堀江貴文さんや孫正義さん、彼らと一緒に働かれていらっしゃった方々には感謝しかありません。
孫正義さんで思い出しましたが、メンタリングをしてもらっている偉大なる先輩、Sudaxこと須田さんの本のリンクを貼っておきます(なんとなく)
やはりADSLをあれだけの速度で普及させるなど、とてもじゃないが、尋常なことではなかったんだな、と感じるばかりでした。
この頃にAge of Empireをインターネットではなく、隣り合って対戦できるように、ヤフオクで安いノーパソを買って、ExpressCardの有線LANアダプタを買って、クロスケーブルで接続して対戦していたのも良い思い出です。
LANケーブルとはなにか、IPアドレスとはなにか、というのをこのときに学んだと思います。(もちろん手探りの独学ですが)
中学校の生徒会のパソコンが壊れた!みたいなときに修理というかOSの再インストールとかも度々していた記憶があります。(Windows Meは本当に安定しなかったなぁ…)
余談
よくテキストサイト、「僕の見た秩序。」というサイトを見ていました。
大学生の時に作者のヨシナガさんとお会いすることが叶って、すごく感動しました。また、本にもサインをしてもらったりしました。その時サインを貰ったのはこちらの本など。
結構、僕の見た秩序。のヨシナガさんの影響も受けた気がするなぁ…
後にコラボアプリも作らせていただいたりもしました。
IT業界に長くいますが、未だに孫正義さんにも、堀江貴文さんにも直接お会いしたことがないので、いつかはお会いしたいなと思っています。機会があれば。(共通の友人の数は何百人単位でいるのですがなぜか機会がなく…)
高校受験
公立しか行かない!(行けない!)と思いつつ、私立も含め、3校受験しました。結局、第一志望していた高校に合格することが出来ました。
担任の先生からは「絶対無理だからランクを下げるべき」と言われていたのですが、受験が終わった日のテストの感想としては「これはもう1-2個上のランクでも合格出来たはずなぐらい解けた!」という感想を今でも覚えています。
高校の選定理由は以下の3つでした。
- 進学を前提としていること(国公立大学への進学率が高いこと)
- 自分でも合格できる可能性があるところ
- 情報(コンピューター)に強いところ
選んで、通うことになったのは「鹿児島県立武岡台高等学校」という学校でした。この普通科に通うことになりました。
本当は「情報進学科」というのがあるのですが、「情報は自分で学ぶ、学校ではサポートさえしてもらえればいい」というひねくれた思いと、進学率や偏差値自体は「普通科」の方が高かったので、普通科の方に進学しました。
高校生時代
入学祝いでPCをゲット
今までは親のパソコンを借りて使っていたという感じだったのですが、無事公立高校に合格出来たということで、合格祝いとして5万円を貰いました。「これで好きなパソコンを買っていいよ」と。
皆さんなら分かると思いますが、5万円でまともなパソコンは買えません!
なので、自作パソコンを選択しました。後々バイト代などで自作パソコンなら強化もしやすいですしね。自作パソコンデビューは15歳でした。
詳細なスペックは忘れましたが、Athlonの安いやつ、メモリはデュアルチャンネル出来る且つ最小限、HDDも安いやつ、という感じの最小構成、モニタは最初は親のパソコンからモニタだけ奪取、後々、液晶ディスプレイ1万円先着5名のセールに徹夜で並んで獲得した思い出です。
自作パソコン、規格通りに組み立てるだけなのですごく簡単でしたね。
1年生 初級シスアド取得
「初級システムアドミニストレータ試験」に合格しました!
「情報進学科」の3年生の目標となっていた資格で、情報進学科の1-2割しか取得出来ない(高校生にとっては)難関な資格なのですが、独学+情報進学科の先生にわからない部分は聞く(部活はPC系にしたので)事によって、無事取得することが出来ました。
初級シスアドに合格した人たちは全校朝会で校長先生からお褒めの言葉をいただける、賞状をいただけるのですが、情報進学科の3年生に混ざって普通科1年生の私もちゃっかりそこに並んでもらっていたので、学校中から「なんか普通科の1年に変なやついるぞ」と覚えてもらった記憶です…
1年生 バイト
バイトはずっと公文式の先生をやっていました。自分の公文をやりおわったあと、先生をする、子どもたちにわちゃわちゃされるというのを週2でやっていました。
高校、バイト原則禁止でしたし、自分が通いつつ先生も出来てバイト代が貰えるというのは良かったです。
100点+花丸マークを書くのが上手になりました笑。
2年生&3年生 放送部編
再び放送部に入りました。放送部でやったことと言えば、一般的な放送部の仕事以外だと、以下のようなことを成果?として残しました。
- NHK杯全国高校放送コンテスト 全国大会出場(ラジオドラマ、ドキュメンタリー部門)
- 文化祭のステージの全学級のテレビへのストリーミング配信(3年)
全国大会に出ることが出来たので、人生で初めて東京に訪れることが出来ました。「ラジオドラマ」という応募者が少ないジャンル、かつ、「ドキュメンタリー」というお固くなりがちで面白みがなく応募者が更に少ないジャンルを選定しました。
「部員は演技ができるわけではない」という課題が応募にあたってあり、過去の優秀な学校では演技がうまい、ナレーターを排出している高校などが上位になっているのに対して、自身のところはそこが全くダメダメだったので、「放送部の日常」をテーマとして「ドキュメンタリーといえなくもないがバラエティっぽい」、そんな感じの題材を選んで、応募してみたところ、放送部がテーマなので演技がそもそもいらない、著作権をテーマとしたのでドキュメンタリーであることを否定できない、という感じで何とか面白い作品になり無事全国出場出来ました。パチパチ!
もちろん、全国大会はレベルが高くて、一瞬で敗北しました。
文化祭のステージの全学級のテレビへのストリーミング配信
これは意外と大変だったので未だに記憶に残っています。設備としてはパソコン2台とカメラと有線ネットワークだけでした。
体育館: パソコンとUSB接続対応ビデオカメラ(iLinkだったかも?)
放送室: パソコンと全クラスへビデオ配信可能な既設設備
渡り廊下: LANケーブル(体育館には校内LANがなかったため)
- 体育館でデジタルビデオカメラを設置
- カメラはパソコンとUSB(iLinkだったかも?)で接続
- パソコンでカメラのキャプチャを、放送室のパソコンに対してストリーミング配信
- 放送室のパソコンにて、エンコードし、コンポジット出力
- 校内放送用システムにRCAケーブルで接続して配信
100BASEの校内LANシステムを用いて配信する(帯域足りるの?)、動画のリアルタイムエンコードが既存マシンだとパワーが足りん、など色々課題があったけど、乗り越えられたときは楽しかったです。
ただ「技術的に楽しかった」という感じで、あまり「すごい感謝されたか」というと否で、基本どのクラスも展示などをしているので、「お昼休憩中にクラスでも体育館の出し物が見られる」っていう感じで、エンドユーザーの数は労力に対しては多くはなかったかなぁと記憶しています。
とはいえ、今まで誰も自身の高校ではやった人が居ないことを、自分発案で出来たのは嬉しかったです。今もこれが放送部の仕事として残っているのかどうかは不明です。
2年生&3年生 IT編
パソコンで大きく分けると2つのことをしていました。
- チャットサーバーの運営
- レンタルサーバーの運営
チャットサーバーの運営
チャットサーバーの方は、チャットサーバーアプリケーションを立ち上げておく、DDNSを登録しておく、サーバーのドメインが雑誌などで掲載されたのでそこそこ人が常駐して賑わっていた、という感じでした。技術的な課題はあんまりなかったですね。
強いて言えば、家のブレーカーが30Aぐらいしかなく、しょっちゅうブレーカーが落ちるので、可用性担保のために、中古のUPS(無停電電源装置)を買って、パソコンとネットワーク関係を数分間は電源断にも耐えられるようにしていました。
レンタルサーバーの運営
これは本当に難しかったです。いろいろな勉強になりました。
そもそも何故やろうかと思ったかというと、ロリポップとかが当時全盛だったんですが、高校生の自分(お小遣い0円)が借りるには高かったんですよね。なので自宅サーバーをしようと。
そして、お金が欲しかったんです。なので「ロリポップみたいなの自分でやってみたらどうか」と思って始めてみました。
月額、3ヶ月一括、半年一括などの銀行振込によって自宅のサーバーを貸し出しをしました。IaaS、ストック型サービスと言えなくもないですね。
FTPと、ファイルアップローダー(Perlで書いたやつ)でファイルアップロードを契約者にはしてもらい、彼らのコンテンツをホスティングしていました。
最初はWindowsXP搭載のIISを使ったサーバーだったのですが、CGIを実行したいというニーズに答えるためにLinuxの何かのディストリに途中で買えた気がします。たぶんCentOSかな?
途中から「動画配信サイト」をする契約者が現れて、その時からが大変でした。インターネット回線は光回線(100Mbps)を契約していたので、大域的には何とかなっていたのですが、結構アクセスの多いサイトだったようで、ルーターがハングアップしまくっていました。市販のルーターで動画配信サイトのトラフィックに耐えられるわけがないですよね。
当時そんな事も分からなかったので、別の市販のルーターを買って、「すぐハングする!」とメーカー修理に出して、問題無しで返ってきて、やっぱりすぐハングする!で返品を受け付けてもらいました。(無知ゆえ…)
ルーターの蓋を開けて、ファンを付けて、冷却をしたらハングする頻度がかなり減ったので、「チップの冷却ってマジで大事だな」と思いました。
結局、中古のパソコンをヤフオクで買って、ルーター専用Linuxディストリビューションをインストールして、そのルーター?を使うようになって安定するようになりました。不安定だったときも使っていただいていた利用者の方々には感謝しかないです。
3年生 余談編
余談に書くことではない、一大イベントなはずなのですが、大学は私立大学に行くのは難しかったので、国公立に志望校を絞って、「出来れば九州大学」「難しそうなら九州工業大学」と思っていました。それらに対する2次試験対策で予備校にも通っていました。
あとAO入試で「長崎大学」の情報工を受けましたが落ちちゃいました。
センター試験が終わって自己採点してみると「化学」の点数がめちゃくちゃ足を引っ張り、「理科2科目」の大学の合格が絶望的でした。
「理科1科目」で合格できそうなところが「(あくまで可能性として)早稲田大学」だったのですが、学費の面で厳しく、国公立に絞ると、「徳島大学 夜間主コース」なら「理科1科目で良い」かつ「センター配分が多く、2次試験配分が低い」ため、私のアンバランスな成績だと、「鹿児島大学は合格は非常に厳しいが、徳島大学の夜間主コースなら2次試験は0点でも100%合格する」という判定でした。
※国語などは満点に近かったのです。私は理系人間というよりはどちらかというと文系なのかもしれません…
というわけで、消去法で、徳島大学 工学部 知能情報工学科 夜間主コースに進学しました。
ちなみにこの夜間主コース、あくまで「授業は主に夜間を主とするコース」であって、「夜間学校」ではないです。そのため、卒業証書などには「夜間主」という文字はなく、あくまで学歴としては「徳島大学 工学部 知能情報工学科」です。学費も通常の国公立の半額だったため、年間24万円程度しか掛からず、本当にあって助かった大学・コースでした。徳島大学ありがとう!!
東京にいると「徳島ってどこ?」って人も居なくもないのですが、徳島大学って結構今の皆さんの手元にあるものの成果を生み出す起源になっていたりする、実績のある大学です。
一番わかり易いのはやはり、ノーベル物理学賞を授与された中村修二先生ですね。高輝度青色発光ダイオードを発明された方で、徳島大学があったからこそ、RGB表示が発光ダイオードによって可能になった、皆さんが今見ている画面が実現可能になった、とも言えなくもないわけです。
最近だと徳島大学発ベンチャー支援「産学連携1号投資事業有限責任組合」設立もされていらっしゃったりして、結構挑戦的な大学だったりもします。
後編に続く?
30分で人生を0歳から語るのは難しく、大学生+社会人編はあんまり、この記事を書くきっかけとなった面接では話さなかったのですが、気が向いたときに、せっかくなので18歳〜35歳編は書いてみたいと思います。
特にこの記事にオチも学びもないです。
改めて読み返してみると「世間って狭いなぁ」とか、「なんとなくでやっていたことが活きることって多いんだなぁ」とか、「何事にも理由があるんだなぁ」とか思って感慨深いですね。